「交通事故で母を亡くして」 旭川市 吉崎 巌

 平成7年11月4日、その時私は東京にいた。夜の8時過ぎタクシーの中で携帯電話が鳴り、出ると妻だった。
 「もしもし、お婆ちゃんが亡くなった」との一言。
私は親戚に高齢のお婆ちゃんが数人いるので、「どこのお婆ちゃん」と確認した。
「うちのお婆ちゃん!」まだピンと来ない。名前を聞いて初めて自分の母だと判る。
 聞くと交通事故とのこと、一瞬頭の中が白くなった。さて、どうしたものか? 考えると胃の中がズシーンと重くなった。その晩一睡もできず思い出すのは何故か? 小、中学生時代のことばかり。
 そして、ふと自分が今まで母に何をしてあげただろうか? と考えた。
 ・・・・・何もない・・・・・涙が自然に溢れ出た。

 翌日、朝一番の飛行機で帰宅すると北枕で寝ている母の姿が小さく見えた。
 61歳になる加害者もうなだれてそばにいた。
 1人で心細かったのだろう、弟も1緒だった。
 「どういう状況だったのですか?」と私は開いた。彼は半分泣きながら説明した。
時間は午後5時頃、小雨模様で非常に見通しが悪く、ライトを点灯していても点いているのかどうかよくわからない様な状態だったらしい。
 『いつも通っている道路なのに、全く気がつきませんでした。ただ、いきなりドーンという音がしてその暖間、人だとわかりあわててブレーキを踏みました。降りて抱きかかえましたが、意識はありませんでした。』
 「横断歩道で信号は車に対して赤だったと聞いていますが、どうでした?」
 『全く判りませんでした。確認していません。申し訳ありません。』と彼は泣き崩れた。
 そばにいた妹が、「母は2週間後出発のオーストラリア旅行を非常に楽しみにしていました。」と伝えました。
 『すみません。申し訳ありません。』
と泣きながら畳に頭をすりつけて謝罪する彼を見て、私は何も言えませんでした。
”・・・事故だからな一!”と何度も何度も自分に言い聞かせるようにつぶやいたのを覚えています。

 20分程たった頃だと思う。ただひたすら謝罪する彼を見て「被害者も非常につらいが、加害者も地獄ですね。」といったら、涙ながら『ハイ!』と応えた。
正直な気持ちだったのだと思う。
 私も車を運転する身、加害者には絶対なるものではないと思った。
 今考えてみると以外と冷静だったのかもしれない。
 お通夜の晩に、母のパスポートが旅行会社の人から届けられた。
 パスポートはそのままお棺の中に納めたが、とても辛く、虚しく、せつない思いでした。

 新聞に毎日のように交通事故のことが出ています。
 ただ何となく他人事のように思って見ていましたが、まさか我が家に降りかかってくるとは考えても見ませんでした。
 事故が起きてみて、何故起ったのか考えてみました。
 加害者の前方不注意はもちろんですが、他のすべてのタイミングの一致したときに事故が起きるものだと思った。
 例えば、もし母が1~2秒歩くのが早いか、遅ければ車は母の前後を通り抜けたと思うし、また、車のスビードがもう10km、否5km程早いか、遅ければこの事故は起きなかったと思う。
 このように、「もしも」「例えば」と言ったようなことが何度も何度も浮かんでは消え、浮かんでは消え、その度に深いため息をついた。

 後日、警察から呼び出しがあり、事故の状況を群しく聞かされた。
 私は「今回の事故は交通事故であり、加害者に厳重な処分をしたところで母が生き返る訳でもないし、出来るだけ軽くしてあげて下さい。母もそのような処分は望んでいないと思います。」と言った。
 警察官は『ではその旨を遺族の意見として文書で検察庁に送るがよろしいですね』と念を押され、私は「はい」と応えた。

 加害者は四十九日、彼岸、お盆、命日、その他と3回忌が済むまで来てくれた。
 私は本人に「裁判の方はどうなりました?」と聞くと、『禁固1年2ヶ月、執行猶予3年』とのことで、私は「執行猶予がついて良かったですね。」と言うと申し訳なさそうに『はい』と言っていた。
 交通事故は被害者にとっても加害者にとってもともに辛く、重荷であり、絶対に起こしてはならないと改めて痛感した。
 特にハンドルを握る時は今まで以上に注意カをもって運転することは勿輪のこと、ただそれに慣れてしまうことが非常に恐ろしい。

(この文章は、平成11年12月6日『「なくせ交通事故」被害者の声』に、掲載されたものです。)