「五十年過ぎても」 札幌市 大亀 博子

 あの日から50年過ぎましたが、昨日のようです。
   郭公の鳴くを我が名を呼ぶと言う
        逝きし言美の詩情哀しき
やはり悲しい運命で終わる子供だったのでしょう。

 昭和25年6月28日、交通事故で亡くなりました。
 昨日まで元気だった「ことみ」が今日冷たくなっています、私はもう笑う事はないだろうと悲しみの大きさに涙も出ない程でした。岩内からイカを運ぶ車が、前からの車に気を取られ、道端にいた子供を引っかけてしまったのです。交通事故と言っても、出血等の外傷はなく、亡くなった日の夕方、腹部にタイヤの跡がはっきり出ていました。病名は、腹部内出血との事、顔も体も綺麗なままで亡くなりました。
 何日もこれが夢であったならと思いました。

 1年生になり、運動会に喜び、遠足に喜んでいましたのに、言美は遠くに逝きました。チョコレートの味も、ケーキの味も知らずに逝った言美、50年過ぎても、毎日、ほしい、ほしいと病院で言っていた「水」を供えています。8歳で亡くなった言美が、もし存命なら何処で暮らしているだろうかと思い数えてみると56歳なのに、私には1年生の幼い面影です。
   年毎に散りては咲ける花ともし
      逝きたる吾子の帰り来るなし

 子供が悪いと同乗していた社長の言葉に立腹、岩内裁判所に申し立て、子供に何も悪い所はない事をはっきりさせました。今の様に道路交通法云々とうるさくなかった昭和25年、私は言美に欠点がなかった事で、そのまま何の金銭的な要求はしませんでした。裁判を起こした事で、子供の死によってお金を得た等と言われたくなかったからです。

 言葉麗しき女の子に育つ様に名づけた「言美」、その時履いてたスカートを今でも持っています。いずれ逝く自分と一緒に火葬してほしいと話しております。83歳ではこんな書き方より出来ません。
 一生笑うことがないだろうと思っていましたが、現在は笑うことも出来ますが、6月28日は、あれから50年になります。綺麗で、何処にも怪我のなかった言美が今でも哀れでなりません。