「息子の家庭の交通事故遭遇について」
札幌市 内藤 功

 私共夫婦は、共働きを経て共に定年も過ぎ、私は幸い第2の職場に就職、長男、長女の2人の子供達はそれぞれ独立生計し孫にも恵まれるなど、平均的な家庭環境でした。

 忘れもしません。平成10年2月6日の金曜日は、タ方から猛吹雪となっていました。明けて7日の土曜日の朝、全く予期せぬ電話が息子から入りました。  「妻、志津子が昨夕の7時ころ、廃棄処理の大型トラックに自転車共々巻き込まれ脳死状態で病院に運ばれた」との第一報でした。取りあえずの状況判断から、孫2人を引き取る為、妻を千棄県まで旅立たせ、現地からの状況報告を待つこととした。

 連絡を待つ間の自分の心理は、毎日のように報道機関その他で報じられている交通事故、これは自分たちが気を付けてさえいれば別の社会の出来事で、私達が生活している社会とは全くの別社会と認識し生活していたことに気付きました。
 このことは、現実の社会生活の中に確として存在していたが、ただ自分が妄想的錯覚をし、加害者、被害者を問わず、ある日その社会から足を引っ張られてはじめて目覚めるのだと感じました。そして、息子、孫たちがこれから妻、母親が居ないがどのように展開していくのか、そして、私共夫婦の生活にもどの様に係わってくるのか想像もつきませんでした。

 しかし、現実は現実として受けとめ、悪いことばかり考えないで、気持ちを切り替えることも、これから生活していく上で必要なことと考え、もし人がこの世に生を受けた時点で、人の運命が存在するなら、嫁には大変気の毒であるが36歳の短い運命を背負って来た人生と諦めること、息子にも大変申し訳ないが、夫自身の身代わりに嫁がなったこと、毎日保育園へ自転車に子供を乗せて送迎していたにも係わらず、その日に限って1人であったことなど、運命的としか考えられない事実を自分の気持ちの整理をする材料にしながら、妻からの報告を待った。
 運命には、逆らえず病院の主治医の説明通り、「頭部脳挫傷」で、嫁の志津子は息を引き取りました。

 特筆すべきは、加害者の運転手、雇い主が、嫁志津子の生があった1週間に1回しか見舞いに来てくれず、また、電話で様子を問い合わせることもなく過ぎたことが悔やまれてなりません。見舞いの回数云々でなく、被害者の様子くらいは毎日でも間い合わせるくらいの誠意があってもと考える毎日でした。

 しかし、事故から1年以上も過ぎ、生活環境の急変にも対応した今は、前向きで孫達の成長を楽しみに生活をしている毎日です。